全国高校サッカー選手権で長崎・国見を戦後最多タイとなる6度の優勝に導き、日本代表も育てるなど長年サッカー界に携わった小嶺忠敏さんが7日、76歳で亡くなった。
三重・四日市中央工監督として全国選手権の常連だった樋口士郎さん(62)は「僕らの世代にとっては高校時代からの大監督。一緒に戦いたいという目標だった」としのんだ。
樋口さんは同校3年時の1977年度選手権で準優勝に貢献。その大会の準々決勝で破った相手が、小嶺さんが率い、全国高校総体で初優勝していた長崎・島原商だった。「パワフルで身体的に強く、うまい選手もいる。(強豪県の)静岡、埼玉、広島ではない地域からもチームが出てきたなという印象があった」と振り返る。母校の監督としては2003年度の選手権準々決勝で国見に0―1で惜敗。「小嶺先生とやれることに感動したし、一度は勝ちたいと意識していた」と懐かしんだ。
後輩監督から見た小嶺さんは「選手と常に真剣に向き合い、すごく情熱を感じる人」。小嶺さんは長崎総科大付を率いていた4大会前の選手権で準々決勝敗退から約1時間後に「明日、帰りに寄るから試合やってくれよ」と電話をかけてきて樋口さんを驚かせた。「普通は選手権が終わったらちょっとゆっくりして、スタッフと一杯やりながら『来年どうしようか』とか考える。でも小嶺先生には常に『選手に勝たせてあげたい』『うまくなってほしい』という気持ちがあった。休む時間なんてなかったんでしょう」
小嶺さんが指導者の道を歩み始めたのは日本サッカーが低迷し、ワールドカップ(W杯)出場も遠い時代だった。樋口さんは「難しい時代から選手育成に情熱を傾け、実際に大久保(嘉人)や平山(相太)ら多くの選手を輩出された。教え子には指導者も多い。教員、監督、一人の人間として、情熱を持たれた方だからこそ、サッカーが苦しい時代でも地道にやられて成果を出されたのでしょう」と悼んだ。【細谷拓海】