小嶺忠敏さん死去 しのぎ削った本田裕一郎さん、目を疑った光景が死去

全国高校サッカー選手権で長崎・国見高を戦後最多タイとなる6度の優勝に導き、日本代表も育てるなど長年サッカー界に携わった小嶺忠敏さんが7日、76歳で亡くなった。同世代の指導者でしのぎを削った本田裕一郎さん(74)=東京・国士舘高テクニカルアドバイザー=は「サッカーに懸ける熱意と情熱で右に出る人はいない。我々指導者の師匠のような存在だった」と語った。

国見の走るサッカー、厳しい練習は知っていたはずの本田さんが、目を疑ったシーンがある。千葉・流通経大柏高を率いていた2003年7月、長崎で開催された全国高校総体で国見高近くに宿泊し、バスで練習グラウンドに向かおうとしていた早朝、当時所属していた平山相太(元FC東京など)らが既に激しい練習をしていたのを目にした。

一方、ある懇親会で、小嶺さんから「指導はさじ加減だよな、本田」と言われた。スパルタ指導として批判もされた小嶺さんの苦悩を、2歳違いの本田さんは感じた。「走る方も走らせる方もつらい。走らせる方も長い時間付き合って、選手のけがにも気を配らないといけない。指導を受けた生徒が『地獄だった』と発信しているが、指導者側もつらさがある。人に批判されることも全部乗り越える覚悟があった人だった」

実績はあるが「威張らなかった」といい、時代の推移とともに新たな指導法も取り入れつつ、「根底にある『人を育てる』というところへの揺るぎない信念を持っていた」と見る。

昨年11月末、関東のとあるグラウンドを歩く小嶺さんを見たのが最後。痩せた印象を抱いたが、両手でサッカー用具をしっかりと握っていたという。「(小嶺)先生はやり残したものもいっぱいあるでしょうけども、走りっぱなしで、走り続けて亡くなられたのは男冥利だと思う」としみじみと語った。【生野貴紀】

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