青き光求め「一人、荒れ野を行く」 孤高の研究 赤崎勇さん死去が死去

2014年にノーベル物理学賞を受賞した名城大終身教授、赤崎勇さん(92)が1日死去した。「われ一人、荒れ野を行く」という孤高の精神と、こだわりの研究姿勢で、不可能と言われた青色発光ダイオード(LED)の開発を成し遂げた。日本の応用物理学を長年主導し、ノーベル物理学賞を同時受賞した名古屋大教授の天野浩さん(60)ら後進の育成にも尽力した。

現在の鹿児島県南九州市に生まれた赤崎さんは、中学時代に長崎県の佐世保海軍工廠(こうしょう)などに学徒勤労動員され、終戦直前には鹿児島県で激しい空襲も経験した。京都大を卒業後、1973年から松下電器産業(現パナソニック)の研究所で青色LEDの開発に取り組んだ。

その頃、青く光る材料としてセレン化亜鉛が注目されていた。だが、赤崎さんは窒化ガリウムの安定した性質に可能性を見いだし、この材料に人生を懸けた。

窒化ガリウムは電気的な性質の制御に必要な高品質の結晶を作るのが非常に難しく、世界中の研究者が見切りをつけていた。実験は難航したが、ついに85年、基板と窒化ガリウムの間に薄膜を作る手法で高品質の結晶化を成し遂げ、最大の難関を突破した。

14年に85歳でノーベル物理学賞に輝くと、日本の歴代受賞者のうち当時最高齢でスウェーデンの授賞式に出席。記念講演では難航した結晶化を振り返り、「(実現できたのは)失敗を乗り越え、最適条件を見いだした天野君の執念のたまもの。理想的な結晶を目にしたときの感動は今も忘れられない」と教え子の天野さんをたたえた。

赤崎さんは生前、毎日新聞の取材に、青色LEDの開発中は成果を国際学会で発表しても全く反応がなく「一人荒れ野を行く心境だった」と振り返った。窒化ガリウムに関心を持つ研究者がいなかったのだ。理系の研究職を選んだ理由について「戦争からの復興に役立つことができるのではと考えたから。私の根底には戦争体験がある」と語っていた。

クラシック音楽が長年の趣味。ノーベル賞受賞者を歓迎するコンサートをストックホルムのホールで鑑賞した際は、妻の陵子さんと万感の笑顔を見せた。

名古屋大で指導を受けた天野さんは2日、「今までおられるのが当たり前だったので、ずっと安心して今の研究に打ち込むことができたが、先生が他界され、自分の中でこれから研究にどう向き合えばよいのか、心の整理がついていない。研究者として、人間としてあるべき姿をさまざまな場面で教えていただいた。私の頭には感謝の言葉しか浮かんでこない。ありがとうございました」とのコメントを発表した。

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