戦中、戦後の思い出を爆笑落語に仕立てた「ガーコン」などで異彩を放ち続けた落語家、川柳川柳(かわやなぎ・せんりゅう、本名・加藤利男=かとう・としを)さんが17日、死去した。90歳。
埼玉県横瀬町生まれ。1955年、六代目三遊亭円生に入門し、後の五代目三遊亭円楽に次ぐ二番弟子に。三遊亭さん生を名乗る。二つ目時代、ソンブレロにギターを抱えての「ラ・マラゲーニャ」で人気を得るが、酒でのしくじりもあり、古典を演じる師匠との確執ができた。74年、真打ち昇進。
78年、当時の落語協会前会長の円生が会長の五代目柳家小さんの真打ち大量昇進などに反対し、一門の弟子らと協会を脱退する「落語協会分裂騒動」が起きたが、協会残留を選び、円生から破門された。以降、さん生の名前を返して小さん一門に移籍し、川柳川柳を名乗る。
代表作の「ガーコン」は、高座で立ち上がり、足踏み式の脱穀機を動かす様子から付いた。若き日に聴いた軍歌やジャズも次々飛び出し、寄席ではおなじみのネタになった。
ほかに、ジャズにはまった息子と父との一騒動「ジャズ息子」、選抜高校野球の歴代入場曲をネタにした「パフィーで甲子園」など。まねのできない爆笑の新作や艶噺(つやばなし)に、新作を手掛ける落語家の間では大御所的存在だった。
その型破りな人生は自著「寄席爆笑王 ガーコン落語一代」(河出文庫)にまとめられている。
「福田さんに似てるって言われて。いや、ホントに似てるんですよ」
川柳川柳さんに初めて取材したのは、もう20年近く前。福田康夫元首相が小泉内閣の官房長官だった頃で、毎日のようにテレビに映る。それを見た週刊誌、サンデー毎日が「この人とこの人は似ている」というグラビア企画で声をかけた。本人はまんざらではない様子で、まずはなによりと思った覚えがある。
一般には知られていないかもしれないけれども、その個性と芸が忘れられない芸人が、かつては多くいた。川柳さんも、その強烈な個性から生まれた芸を、忘れることはできない。
1931年だから昭和6年の生まれ。高等小学校を卒業すると上京して働いたが、酒の販売店で酒を覚えてしまったことが、後々、しくじりを重ね、「異才」となるきっかけにもなった。
昭和の名人、六代目三遊亭円生の二番弟子。なのに古典ではなく新作の道へ。その理由をこう話してくれた。
「古典が『通』のものになり、テレビができたのもあって、落語がわかる人はわかるけれど、一般の人はどんどん離れていった。若いもんは本を読まないから落語を聞いて想像できないんだな。これじゃだめだ、落語を聞き慣れていない人を引っ張り込むには新作だ、と始めたんです。でも、円生の弟子だから、新作をやるにはすごい抵抗がありましたよ」
二つ目時代、「ジャズ息子」が大いに当たった。「円生が怒るかと思ったら、義太夫の部分を直してくれた。円生はもともと義太夫をやっていた人だから。(五代目柳家)小さんもばかにほめてくれて、若手なんか上がれない三越落語会に出してくれた」。その頃はまだ師匠とは良好な関係だったのだろう。
「一つ当たって突破口ができちゃった」と、ラテンブームに乗ってギターを持ち込み、ソンブレロをかぶり「落語界のアイ・ジョージ」と演じたのが「ラ・マラゲーニャ」。これもまた売れたが、今度は円生はいい顔はしなかった。
78年、円生一門の落語協会脱退時に協会に残り、川柳川柳に。寄席では「ガーコン」をとにかくかけた。歌を交えながらの戦前・戦後史は、寄席の持ち時間に合わせて長くも短くもできる。戦中、戦後を知らない世代にもわかりやすく、とにかく面白い。「月月火水木金金」といった軍歌もあれば、パフィーの「これが私の生きる道」も登場。「なんだよあれは。悪いわね~、ありがとね~って」と、歌いながらツッコむ。
「軍歌のネタは、ずっと聞けばわかるけど、賛美してるわけじゃないから。いかに戦争はバカバカしいか、負けたあたりもたっぷりやるから。口はばったいけど、一番戦争をわかりやすく語ってるつもり。文部科学省から表彰されてもいいかな」
酒でのしくじりエピソードは事欠かない。最初にお会いした時も、上野の落語協会近くにあった居酒屋でウーロンハイのダブルを空け、上野広小路亭で公演中の立川流寄席を見つけると「ちょっとのぞこう」と上がっていき、旧知の土橋亭里う馬さんをいじっていた。「あまり行かない」というカラオケに移ると、マイク不要で藤山一郎、岡晴夫、灰田勝彦らの懐メロを次々と熱唱。自宅近くまでお送りすると「祝儀はねえのか。じゃあな」。なんて気持ちのいい師匠だろう。「歌った後は気持ちがいいね。だからこんなに元気なんだよな」
戦中、戦後のつらさを芸に変え、酒と歌を愛し、独自の道を歩んだ、見事な90年の生涯だった。【油井雅和/デジタル報道センター】