笑福亭仁鶴さん死去 84歳 タレント落語家の草分けが死去

上方落語界の重鎮で、タレント落語家の草分けとしても活躍した笑福亭仁鶴(しょうふくてい・にかく、本名・岡本武士=おかもと・たけし)さんが17日、骨髄異形成症候群のため死去した。84歳。葬儀は近親者で営んだ。

1937年、大阪市生まれ。初代桂春団治のレコードを聴いたのをきっかけに落語に魅了され、62年、六代目笑福亭松鶴に入門。63年に吉本興業入りし、京都花月で初高座を踏んだ。

速いテンポで畳みかけるように爆笑を取る落語は、後進に大きな影響を与えた。十八番の「初天神」「向(むこ)う付け」などでは、消えつつあった大阪の下町の風情を現代に伝えた。84年には師匠・松鶴と13日連続の親子会を開催。2006~11年まで、なんばグランド花月(NGK)で独演会を開き、70歳を過ぎても新たなネタを手がけるなど精力的に活動した。

数多くのテレビやラジオに出演した。66年にスタートした深夜ラジオ「オーサカ・オールナイト 夜明けまでご一緒に」で一躍、若者の人気者に。多い時には週15本のレギュラー番組を持ち、関西のタレントとしては当時珍しかった全国区での活躍だった。その後、喉の酷使が原因でポリープの手術を繰り返すようになり、75年ごろからはメディア出演を控えたが、86年からNHK「バラエティー生活笑百科」の司会を務め、「四角い仁鶴がま~るく、おさめまっせ!」のフレーズは広く知られた。読売テレビ「大阪ほんわかテレビ」には80歳を過ぎても出演した。

功績の大きさから、05年には所属の芸人として初めて吉本興業の特別顧問に就任。17年6月に、おしどり夫婦で知られた妻隆子さんを亡くしてから体調を崩し、同年夏ごろから舞台やレギュラー番組を休むようになっていた。

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