1952年のヘルシンキ五輪マラソン男子代表で、53年のボストンマラソンで優勝した秋田県大館市出身の山田敬蔵さんが2日に亡くなった。92歳だった。同市東台6に住む妹の田中京子さん(81)は「敬蔵兄さんが私によく語ったのは『反戦と努力することの大切さ』だった」と振り返る。
敬蔵さんは旧大館町生まれで、今の大館市の東大館近くに生家があった。父は旧国鉄職員で、9人きょうだい。1人は生後間もなく亡くなっている。
京子さんによると、次男の敬蔵さんは独立心が強く、早くから家を出ることを決意。満蒙開拓青少年義勇軍に志願し、旧満州(中国東北部)に渡った。
終戦の年の45年秋、家の周囲で遊んでいたまだ幼かった京子さんは、目の前に現れた軍帽姿の男性が敬蔵さんとは知らなかったという思い出がある。
後に京子さんに、敬蔵さんがよく語ったのは、戦争の惨さだった。「(満州で)手にした銃を敵に奪われ、その銃で仲間が殺された」ことを悔やみ、「戦争はしてはいけない」とよく話していたことが印象に残っているという。
敬蔵さんの足の速さは幼い時から知られ、一家にとっても自慢だった。だがヘルシンキ五輪では26位と惨敗。失意のどん底で、京子さんを前に口にした言葉は「努力しかない」だった。
「不本意に終わったヘルシンキ五輪を振り返って『もう死ぬしかない』と一時落ち込んでいたが、『努力しかない』と悟ったのは恩師の金栗四三監督の教えだった。金栗監督は『気力、体力、努力』の大切さを説いた。敬蔵兄さんは監督の教えを脳裏に、努力することの大切さを胸に刻んだ」
敬蔵さんは翌年のボストンマラソンを制し、その快挙に、日本中が沸いた。その姿に京子さん自身もまた励まされた。「敬蔵兄さんは、努力の大切さを身をもって教えてくれた。優しい兄さんでしたよ」と振り返った。【田村彦志】