前衛短歌運動の旗手として戦後の歌壇をリードし、皇室の和歌の指導役も務めた歌人で文化功労者の岡井隆(おかい・たかし)さんが10日、心不全のため東京都内の自宅で死去した。92歳。葬儀は近親者のみで営む。後日お別れの会を開く。
名古屋市生まれ。慶応大医学部卒。10代から短歌を始め、歌誌「アララギ」を経て1951年、近藤芳美の「未来」創刊に参加した。内科医として病院勤務の傍ら、塚本邦雄、寺山修司らと前衛短歌運動を起こした。60年安保闘争などを背景に、歌壇の旧弊を打ち破る超結社の活動を展開。吉本隆明と「定型」をめぐって論争した。第1歌集「斉唱」(56年)、第2歌集「土地よ、痛みを負え」(61年)で、リアリズムを脱し思想性、実験性に富む独自の歌風を築き、後進に影響を与えた。<母の内に暗くひろがる原野(げんや)ありてそこ行くときのわれ鉛の兵>は初期の代表歌。
70年代以降、現代に生きる人と社会を見つめた自在な創作に取り組んだ。80年代には「ライトバース」を提唱するなど、意欲的に新境地を開拓し続けた。83年に歌集「禁忌と好色」で迢空賞、2000年に「ヴォツェック/海と陸」などで毎日芸術賞を受賞。他に「鵞卵亭(がらんてい)」、「親和力」(斎藤茂吉短歌文学賞)、「ウランと白鳥」(詩歌文学館賞)など歌集は30冊を超える。後期の代表歌に<ぐろうばりぜいしよん。ぐろうばりながら裡(うち)に蒼(あお)白く国家を胎(はら)む>など。
晩年は詩作も手掛け、10年に詩集「注解する者」で高見順賞を受賞。斎藤茂吉や森鷗外、木下杢太郎らに関する評論も多い。京都精華大教授、宮中歌会始選者を歴任。07年から18年まで宮内庁御用掛を務めた。09年、日本芸術院会員。16年、文化功労者に選出された。
オーソドックスな近代短歌を超えて、戦後の新しい短歌を復興しようとする運動の中心人物だった。比喩的表現や口語文体の活用など若手歌人にも影響を与えた。好奇心が旺盛で、バイタリティーと機動力があり、晩年まで精力的に活動された。宮内庁御用掛としては、皇族方が現代短歌の文体と相通じる作品を詠まれるようになるなか、率先して指導されたのではないか。最近は現代詩を創作し、詩人としての役割も大きかった。