八代亜紀さんはドライバーのマドンナ デコトラ団体会長、半世紀の縁が死去

心にしみる歌声で知られた八代亜紀さんは、トラックドライバーたちのマドンナであった。亡くなる直前まで半世紀ほど縁を結んできたのが、派手な装飾で飾り立てたトラック、通称「デコトラ」の愛好者団体「哥麿(うたまろ)会」だ。田島順市会長(75)=埼玉県本庄市=は、「八代亜紀は死んでいない。俺たちドライバーの心の中に生きている」と、大切にしてきた思い出や最後のコンサートでの舞台裏を明かした。

訃報を聞いたのは、能登半島地震の被災地に飲料水などを届けて本庄に戻った翌日の1月9日午後だった。マネジャーから、2023年12月30日に亡くなったことを知らされた。突然のことに驚いたが、どこかで覚悟はしていた。

最後に会ったのは、同年9月5日に長野県佐久市で開かれたコンサート会場だった。いつものように楽屋を訪ね、冗談を交わした。

「ロビーには自分で描いた富士山の絵が飾ってあった。『売ってくれないか』と言ったら、笑いながら『私の絵は高いよ』だなんてね」

笑顔の裏で、八代さんは膠原(こうげん)病と闘いながらステージに立っていた。「公演終了後は必ず帰りの車まで見送るんだけど、周りの人に支えられて足を引きずっているんだ。いつもは乗用車なのに、ワゴン車だった。会場までの行き来、苦しくて横たわっていたんだよ。でも、歌は完璧だった。プロとしての誇りを見たね」

単独のコンサートとしては、佐久が最後の舞台となった。

田島さんは八代さんより二つ年長。海上自衛隊を経てトラックのハンドルを握り始めた。1971年デビューの八代さんとはほぼ同期だ。

運転席でラジオをつけると、渋い歌声が流れてくる。振り絞るような声に元気をもらう思いがした。過酷な労働。弱音は吐けない。くじけそうな時に耳にする、こぶしの利いたハスキーボイスは、応援歌だった。

「トラックドライバーの間で人気に火がついたんだ。八代も終生、感謝していた」

デコトラブームも到来していた。75年には菅原文太さん主演で映画「トラック野郎」が公開。シリーズ化され、八代さんも第5作(77年)に出演。「紅弁天」の役名とともに一躍、ドライバーたちのマドンナになった。

田島さんは仕事の合間を縫ってコンサートに足しげく通った。目立ったのだろう。八代さんが80年に「雨の慕情」でレコード大賞を受賞した時には、会場の日本武道館に招かれた。

言葉を交わすようになり、八代さんもトラックドライバーに親しみを持っていることが分かった。「おやじさんが運送会社を経営していたようだ。小さい時から助手席で忙しく働く姿を見ていたんだ」

同シリーズに協力する目的で哥麿会が結成され、田島さんも会員に。会はシリーズの終了(79年)と同時に自然消滅した。復活させたのが田島さんだった。83年のことだ。デコトラを文化として社会に認知してもらおうと、一般社団法人化し、会の目的に交通遺児や被災地への支援を掲げた。

積極的に協力してくれたのが八代さんだった。何かあればメッセージが届き、「活動に使ってね」と写真撮影にも気軽に応じてくれた。

「『自分は被災地に行けないけど、頼むわよ』とよく言っていた。戻ると『現地はどうだった?』と聞かれたものだ。俺たちと一緒に活動している思いだったんだろうね」

現在、哥麿会の会員は全国に約500人。八代さんのコンサートには会場近くの会員たちが応援に行く習わしになっていた。

ただ、佐久でのコンサートはいつもと違った。最前列に20席ほど、哥麿会の席を用意してくれた。料金もいらないという。面食らったのは曲の合間に「きょうもトラックが来てくれた」と、哥麿会、そして田島さんのことを紹介したという。「体調の異変に、思うところがあったんだろうね……」

訃報に接してから八代さんの歌は聞いていない。「佐久での最後の歌声を大事にしたいんだ」。お気に入りは、トラックドライバーを歌った「陸の船乗り ロンサムロード」(84年、山口洋子作詞)。「声をかけるとしたらだって? ありがとうだね」。こわもての目尻が、かすかにぬれているようだった。

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