戦前から天才少女とうたわれ、戦後も関西を拠点に国際的な活躍を続けたバイオリニストの辻久子(つじ・ひさこ、本名・坂田久子=さかた・ひさこ)さんが13日、死去した。95歳。
バイオリニストだった父の吉之助さんから6歳で英才教育を受け、9歳の時に大阪松竹座で初めて演奏。1938年、12歳で「第7回音楽コンクール」(現在の日本音楽コンクール)でバイオリン部門第1位と文部大臣賞に輝き、「天才少女、現れる」と、一躍脚光を浴びた。戦後も56年、ハチャトゥリアンの「バイオリン協奏曲」日本初演が評価され毎日音楽賞(現在の毎日芸術賞)を受賞。さらにショスタコービチのバイオリン協奏曲の日本初演(57年)、バッハの無伴奏ソナタ全曲演奏(66~67年)など積極的な演奏活動を行った。一方で旧ソ連やイギリス、スイスなど海外演奏旅行にも出かけた。
演奏活動のかたわら、88年から8年間、兵庫県教育委員を務めた。大阪市内に「桜宮弦楽塾」と「辻久子記念弦楽アンサンブルホール」を開き、後進の指導にあたった。
「バイオリンの女王」と呼ばれた辻久子さんは、ざっくばらんな人柄で多くのファンに慕われ、最期まで生まれ育った関西を離れなかった。
戦前は諏訪根自子(すわね・じこ)さん、巌本真理さん(いずれも故人)とともにバイオリンの「3人娘」として騒がれた。東京で活躍するほかの2人に比べて、大阪で演奏活動を続ける辻さんのハンディキャップは大きかったが、中央志向とは無縁で、逆に常に聴衆とともにあろうとした。師のオイストラフさんの「音楽家は大衆に奉仕する者」との言葉を活動の原点とし、地方公演には積極的に出かけた。
1970年代、和歌山県の山間部の小学校でのこと。小学校の講堂で弾きはじめたら、雷が鳴り出し、激しい雨音でバイオリンの音がかき消されそうになった。辻さんはとっさに舞台から降りて、児童たちが座っている真ん中で弾き続けた。辻さんは「演奏をやめてもよかったのかもしれないが、後ろの方の児童にも聴いてもらいたいと思った途端、自然に足が動いていた」。
自ら開設した弦楽塾では、塾長として、将来のバイオリニストを夢見る子供たちの輪の中に入っていった。辻さんは「天才少女をつくるつもりはない」と言い切り、教え子たちに説き続けたのは「音楽家である前に魅力ある人間、より高い理想、希望を求める人間に」という言葉だったという。