アントニオ猪木さん、「ケタ外れ外交」を貫いた師への尽きぬ思いが死去

マットを降りれば、シャイでお人よし、そしてロマンチストだった。79歳で死去した元人気プロレスラーで、元参院議員のアントニオ猪木さん。インタビューを重ねてきた私には「燃える闘魂」のイメージはない。ただあきらめはしなかった。「オレ、日本と北朝鮮の橋渡しがしたいんだ」。そこには師、力道山への尽きぬ思いがあった。

1995年4月、私は平壌(ピョンヤン)にいた。猪木さんが企画した「平和のための平壌国際スポーツ文化祭典」の取材だった。メインイベントは大同江(テドンガン)の中州、綾羅島(ルンラド)にあるメーデースタジアムでのプロレス。特設リングにかぶりつき、興奮したものの、違和感はぬぐえない。そう、巨大な金日成(キム・イルソン)主席の肖像画が見下ろしているのだ。ソ連が崩壊、建国の父も前年に死去していた。後継者の金正日(キム・ジョンイル)総書記は社会主義の孤塁を守るのに必死だったのだろう。日本などから多くの観光客を呼び込み、外貨を狙おうとしたに違いないが、プロレスは資本主義の総本山・アメリカが本場のショービジネスそのものだ。よく実現したなあ、と思った。いや、力道山なくしてはありえないイベントだった。

最終日、平壌郊外、大城山(テソンサン)の広場で朝鮮伝統の踊りや民俗遊びが披露された。猪木さんはじっと見つめていた。隣には「世紀の一戦」の相手、ムハマド・アリさん。…

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