名選手に成長した教え子「厳しくて情に厚い」 松永怜一さんを悼むが死去

アマチュア野球一筋で名選手を育て上げた松永怜一さんが12日、90歳で亡くなった。高校、大学、社会人の各カテゴリーで指導者の道を究め、1984年ロサンゼルス・オリンピックでは日本代表を金メダルに導いた。練習に妥協はないが、情に厚い――。教え子たちはそう言って恩師をしのんだ。

「人間というもの、師と仰ぐ方と出会えるかがいかに大事だと思わせてくれました」。懐かしむように恩師の死を悼んだのは、田淵幸一さんだ。法大時代に22本塁打を放ち、山本浩二、富田勝と並んで「法政三羽ガラス」と呼ばれた。東京六大学リーグ通算48勝を挙げた山中正竹を擁し、法大の黄金時代を築いた松永さんの手腕は有名な話だが、田淵さんは、真っ先に高校時代の出会いを挙げた。

法政一高に外野手として入学した時の監督が松永さんだった。「甲子園を目指して入ったのに部員がごまんといて、1日10人、20人はすぐにやめていく。これではボールに触れない」と、1年生で誰もやらない打撃捕手を買って出た。すると、名将の目が光った。手首の使い方を褒められ、正捕手の座をつかんだ。「競争率ゼロのバッティングキャッチャーをやったのがおれの野球人生の始まり」と振り返る。

「指導は毎日同じことばかり。1日で3までいったら次の日にまた1に戻る。4にはいかない。きのうやったんじゃねえかということばかり」。褒めることは、めったにない。基礎を徹底的にたたき込み、そこに妥協もない。

「とにもかくにも厳しい人だったが、感極まると情があふれた」というのは、主力としてチームを支えた山中さんだ。4年秋のリーグ戦で今も破られていないリーグ最多記録の48勝目を挙げた時には、両肩に手をかけて「お疲れさま」とねぎらってくれたという。優勝を決めた試合でも九回に山中さんをマウンドに送って胴上げ投手にしてくれた。「あの温情を嫌う人が、最高の演出をしてくれたのが忘れられない。野球を愛し、野球にかける情熱はナンバーワン。天国に行ってもノックバットを振っているはず」と思いをはせた。

田淵さんによれば、3年前は元気だったが、最近は食事も流動食で体調は優れなかったという。田淵さんは「やっぱり来たかあという感じ。心構えはできていました」と名将の死を悼んだ。【浅妻博之、岸本悠】

法大時代、非常に厳しく指導されたが、松永さんの教えがあったからこそ、プロの世界で成績を残すことができた。私の野球人生の恩人です。大変お世話になりました。

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